優しい文章を書きたい

あけすけすぎず、愚痴らず、でも素直な気持ちでいろいろ書きたいです。

ある瞬間のこと

気付いたら、二ヶ月も放置してしまった…
とっても楽しい毎日を過ごしています。
今日、何でもない普通の瞬間に、じわっと湧き出るような幸せを感じたので、覚え書き。

誰もいないお昼の時間に、静かで明るい院生室のお気に入りの机に座った。窓際の席。お気に入りのパソコンを開いて、音楽を小さな音で流して、先生のお手伝いで学部生の出欠票を整理していた。パソコンで開いたLINEに、友達二人から入るぴこぴこした吹き出し。たまに笑いながら横目で見て、午後のゼミで使う資料を印刷しながら、急にぎゅーっと幸せいっぱいな気持ちになった。
お気に入りの場所で、お気に入りのものを大切に扱って、これから来る時間を楽しみに待てるってなんて素敵なことなんだろう。
友達からの小さな吹き出しで、冗談のついでに言われた一言が意外なほど嬉しかった。

今自分の周りに整えられている小さなものごとが、全部愛おしく思えた瞬間。たまにある。あ、今、何も不足はないし、何も欠けてはいけないな、と思うような幸福。
ちょっとお腹が空いてつまんだ鈴かすてらとか、濃く出すぎたほうじ茶とか、たった一言の吹き出し、黄緑のふせん、パソコンから流しているポートディスカバリーのテーマとか。こういうもの全部が、自分を形づくっているんだなぁって。こういう瞬間を毎日の中でできるだけ多く持てるということが、豊かに生きるということに繋がるんだろうと思った。なんとなく。

ぱつんぱつんの頭

頭の中のTo Do Listに書き込みは増えていく一方で、全く処理できてなくて、どこから手をつけたらいいのやら、頭ぱんぱんです。

短期的なものが続くのならまだしも、長期的なやるべきことがたまりまくって、そして目をそらしたくなるような甘やかす気持ちも相まって、どんどんずるずる逃げてしまいます。

こわい。年齢的にちゃんと大人になっちゃっていることが怖いです。

エリー、マイラブ

NHK朝の連続テレビ小説『マッサン』のお話です。

 

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今日、ついに我らがエリーが新たなadventureに旅立ってしまいました。

最終回を明日に控え、"Life is an adventure"を軸にしたこの物語の、半年間の感想を書いてみようと思う。以下ただただ長々と愛を語るのみです。

 

朝ドラは数年前から大好きで、たとえ惰性になっても一話も見逃さずに観るということを信条(?)としています。

いろいろ観ていたけど、まちがいなく、マッサンは私にとって第1位の朝ドラだと思う。

その理由はやっぱり、エリー!エリー!エリー!

エリーほど天使なヒロインって他にいるのか!?と興奮して主張したいくらい、エリーが優しくて美しくて神々しいくらいに天使。エリーを悲しませるやつはどんな理由だって許せない、エリーを困らせる幼少期エマが憎いと一視聴者に思わせるくらい天使。とにかくエリーが愛おしすぎる。だいたいヒロインは同年代なこともあって、「こんな風に受け止められるのか」とか、「それはちょっとないんじゃない」なんて、エピソードに対して感心したり、非難してみたり、自分を重ねて観てしまう。のだけど、エリーにはもうそんなレベルを超えて常に圧倒されていた。エリーに「だいじょうぶ、絶対うまくいく」って言ってほしいと何度思ったことか……!

 

そんなわけで、今週は最終週なこともあり、朝の号泣から始まる毎日でした。

第1話の始まりは、エリーの名をつけたウイスキー「スーパーエリー」の授賞式。年を重ねたマッサンが亡くなったエリーの写真を眺めながら、若き日の二人を思い出すというところから物語が始まります。一話からエリーがマッサンより先に旅立つことはわかっている上で、その死を意識しながら二人の歴史を追っていくことになります。

わかってはいても、「死が二人を別つまで」の通り、二人の愛の先に待つ別れを思うといつもどこか切ない。幸せだったり、ちょっと笑えるシーンのあとに、第1話をふと思い出すときゅっと心が痛む。あのシーンから物語が始まるの、すごい効果だと思う。なんでもない幸せをかみしめて生きることの有り難みを思うもの。

 

そして、今週の演出と、エリー役のシャーロットさんの演技がすばらしい。

一気に12年の歳月が経って、あっという間におばあちゃんになってしまうんだけど、本当におばあちゃんになっていた。よく見ればもちろんまだまだ若いのだけど、佇まいや話し方、体の動かし方が本当におばあちゃん。女優さんってすごい。

エリーの残された一日一日が穏やかに、ゆっくりと、優しく流れていく。

一人で歩き、歌うエリーを遠くから見るマッサン。気づいて笑顔になるエリーをマッサンが抱き上げてくるり、と回す。オープニングのように、くるくるくると軽やかには回らない、年を重ねた二人。

エマとマイクを見て、若き日を思い出すマッサンとエリー。二人の若々しさ、瑞々しさが眩しい。手袋をとって、手をつないで歩く。目をつぶって幸せを噛み締めるエリー。

ずっと忙しく、冒険してきた二人に訪れた最後の安らぎの時間の描写。ただ二人が笑いあうだけで、胸にぐっとくるものがあります。半年間、毎日、彼らの人生を共に感じて生きて来たからだなぁと思う。

エマとマイクとの対比もいいと思う。エリーが夢を追いかけるか安定を求めるかで迷うマイクの背中を押せるのは、マッサンのそばで彼女がその夢を応援していたことをエマが誰よりも知っているから。マッサンが二人をなかなか認められず、それは自分がずっと経験してきたことなのに本人はきっと気づいていない。エマとマイクを通して、マッサンとエリーの道のりを思う。

辛いこと、苦しいことを共に乗り越えてきた二人を見て、マイクはエマと結婚することを決意する。プロポーズされたエマが、マイクに返事をするよりも前に「お父さん!お母さん!聞いて!」と走り出してしまうのも可愛い。

 

あぁ本当に、人生って冒険なんだなぁと思う。

俊兄とハナも、熊さんも、悟も、エマとマイクも、みんなそれぞれ自分の冒険を一生懸命しているんだなぁ。

マイクへのエリーの言葉を、自分に言われたみたいに大切に受け取ります。

私もエリーみたいに、自分のadventureを楽しんで生きていきたい。Life is an adventure!

明日はついに最終回。タオルとティッシュを大量に用意して、思いっきり泣いて、二人の冒険を見届けよう。

 

 

掃除の記憶

心がもやっとしたら、部屋の掃除・片付けをすることにしている。

もくもくと手を動かしていると気分転換になるし、いる・いらないの選別に一生懸命になって余計なこと考えずに済むし、もちろん部屋もすっきり片付いて気持ちがいい。

 

もともとはとにかく物が多いごちゃりんこルームで、服ははみ出し本は溢れ、隙間という隙間にぬいぐるみ、その合間に化粧品や文房具が詰め込まれた、いわゆる汚部屋でした。(ただ、食べ物や飲み物を放置することはなかった、ただひたすらに物が多かったと主張しておく念のため)

見えないところに押し込んでなんとか見た目だけきれいにして、ちょっと忙しくなるとすぐまた元どおり、の生活に嫌気がさして、一念発起したのが2年前。始める前に記念に写真を撮っておいたんだけど、よくもこんな部屋に住んでいたものだと本気で思う。たまに見ると笑えるくらい。

断捨離やこんまりさんも当時話題になっていたけど、突然目覚めてやり始めたから完全自己流であらゆるものを処分しまくった。服も、本も、化粧品も、ぬいぐるみも、写真や思い出と称して取っておいたものも。古くなった家具も処分した。

その最中から掃除や断捨離について興味が湧いて本を読んだりして、それから今に至るまできれいなお部屋をキープできています。

 今もちょっと散らかってきたな、と思ったら最初に写真を撮ってから始めると、達成感が味わえて楽しい。いいストレス解消法です。

 

そして、今週も少しずつ片付けをしていた。いらない洋服や古くなった部屋着をまとめると、ゴミ袋1袋分出てくるからびっくりする。調子が出てきて、どんどん溜まっていった資料を整理して、いらない本もまとめたら20冊近くになった。明日ブックオフに持って行こうと思う。

どうでもいいけど、掃除をすると金運がよくなるというのは個人的に本当だと思っている(笑)

最初に思いっきり片付けたときは現金で2万円くらい机やカバンから出てきたし、本を売ったら1万3千円ほどになった。今日も机とタンスの引き出しを整理していて、もう隠れたお金は期待もしていなかったけど、引き出しを抜いたその奥に封筒に入った千円が出てきてちょっと笑った。神様やさしい。掃除、片付け、おすすめです。

ちいさな幸せ、つらつらと

友達とお茶をして、「今日の夜は何して過ごすの?」と聞かれ、「家族と夕食を食べて、本を読む。勉強のためのものと、ただ楽しみのためのものと」と答えた。

そうしたら、少し笑って、楽しそうだね、と言われた。当たり前のことを言ったつもりだったけど、なんだかとても幸せな気持ちになって、思い切り頷いた。

 

帰りはまだぎりぎり夕方と言える時間で、空は紺色で、空気は冷たいけれど春のそれだった。もう少しあたたかくなったら、私の一番好きな種類の夜がやってくる。

肌に触れる空気が柔らかく、ぬるく、私はその時期いつも「まるで泳いでるようだ」と思う。歩いているのではなくて、生ぬるい水の中を泳いでいるような感覚。春の空気はなんとなく全体的にぼんやりしていて、暑くなったり夜は冷え込んだり着る洋服に迷うのだけど、その曖昧な不思議な感じが好きだ。

 

帰りの電車の中から、『間宮兄弟』を読み始めた。

まだ半分弱くらいしか読めていないけど、おそらくとても好きになって、大切で、何度も読み返す一冊になるであろう予感がひしひしとしている。

懐かしい、どこか知っているような幸福感がものすごい。子どもじみた幸福な食べ物、昔家族と遊んだボードゲーム、クーラーをつけながら窓を開ける夏の夜、風鈴の音。

「ずいぶん遠くまで来てしまった。でも、誰にも本来いるべき場所があるのだ」という依子の言葉が、多少なりとも理解できる自分になっている。

続きを読みます。

 

映画『冷静と情熱のあいだ』のトレイラーがとても綺麗で、たまに観ている。

1分半ほどだけど、バックミュージックの”Book of Days”とあおいのちょっと不思議なイントネーションの日本語と、映像がすばらしくぴったりで、観るだけで気持ちがしゃんとします。

 


冷静と情熱のあいだ - YouTube

DUGに行って、ノルウェイの森を思い出したこと

今日、友達と一緒に昼食を食べて、本屋に行って、お茶をした。

偶然通りかかって、人生二度目の新宿のDUGに入った。なつかしい。前に行ったのは、たぶん20歳くらいの時だと思う。『ノルウェイの森』を読んで、憧れて行った。ワタナベくんと緑がジントニックを飲んでいた、はず。当時はジントニックもたいして美味しく思えなくて、同じようにジントニックを飲みたかったけど、やめてロイヤルミルクティーを飲んだのを記憶している。今日もアイスカフェオレを飲んだ。

ノルウェイの森』について書くつもりではなかったけど、思い出したらまた改めて読みたくなった。調べてみたら、当時に書いた感想が残っていた。初めて読んだのは高校二年生のときで、二年後に読み返したらしい。そしてジントニックではなくて、ウォッカ・トニックらしい。我ながらかなりジャストな年齢で読んでいたことに驚く。

 

初めて読んだのが高校二年生の夏。

二年ぶりにちゃんと読み返してみました。

ほんとにね、登場人物みんなが大好き。

切なくなるくらいみんな大好き!!

久々だったけどこんなに素敵な物語だったんだって、改めて思いました。

死は悲しいけれども別れではない。

生と死は対極関係ではなくてそばにあるもの、直子は死んでも直子に会えなくなるわけではないというのがいいなー。

本当に切なくて優しい世界。

と言うより、優しいものっていつもどこか切ないんだろうなって思いました。

 ・・・

村上春樹の本に出て来る女の子って本当にみんなキュートでちょっと変わってて、いつも読んでるとこんな風になりたい、こんなしゃべり方したいって思っちゃう。

・・・

でも何より、もうすぐ二十歳っていうワタナベくんや直子、緑と同じ歳の今これを読んだら、なんだか前よりずっと考えなきゃいけないことがある気がしました。

特に、ワタナベくんのおいキズキ、で始まることば。

大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。

俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそう思わない。

俺はもう十代の少年じゃないんだよ。

俺は責任というものを感じるんだ。

俺はもう二十歳になったんだよ。

そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。

 

で、この小説はボブ・ディランのKnockin On Heaven's Doorが合うと思う、と締めくくっていた。どこでそんなの知ってたきたんだろう、17歳のときに…と思ったけど、おそらく伊坂幸太郎の「神様の声」のくだりか、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中の「雨降りを眺めている子ども」(確かそんな感じ)のくだりだろう。

もうずいぶん前のことだし、今よりずっと幼かったはずの自分だけど、それなりに色々考えて、色々なものを吸収していたんだなと思う。そして、20代の半ばになった自分が読んで、どう感じるのかを知りたい。

やっぱりこの頃に読んだものは、今でも自分の価値観形成に大きく関わっていると思う。

 

 本当は全然違うことを書こうと思っていたのに、ノルウェイの森の話になってしまった…

 

繰り返し読むこと(2)デッドエンドの思い出

『デッドエンドの思い出』は、単行本が発売されたころに買って読んだ記憶がある。……と思って奥付を見てみたら12年も前。ずいぶん前のことだ。

短編を読むのが久しぶりだったからかもしれないけど、いつもの雰囲気とずいぶん違う気がした。たぶん、登場人物たちが、なんとなく“普通”の人々であることが原因であると思う。自分に近い。特に、表題作のミミちゃんは同い年で、だからこその「どこにでもある、ふつうな」悲しい顛末にとても心が痛くなった。でも、間違いなくその先に光が見えている中で、じっと傷んだこころを癒していく様子は、つらいばかりじゃなくむしろ快く感じた。だいじょうぶ、あともう少し、と応援しながら読む一方で、自分も応援されているような。

読み終わって、あとがきを読んで、なんとなく納得した。

 

この短編集は私にとって「どうして自分は今、自分のいちばん苦手でつらいことを書いているのだろう?」と思わせられながら書いたものです。(中略)

読み返すと、人生のいちばんつらかった時期のことがまざまざとよみがえってきます。だからこそ、大切な本になりました。(中略)

読んでくださった皆様も、「なんでこんなつらいものを金を出してまで読んでいるのだ!」と思ったかもしれないけれど、この切なさは(もしたまたま気が合って、これを読んで切ないと思ってくださったなら)、きっとなにか必要なものなのだと、私はなんとなく思っていますので、許してください。

私はばかみたいで、この小説集に関しては泣かずにゲラを見ることができなかったですが、その涙は心の奥底のつらさをちょっと消してくれた気がします。皆様にもそうでありますよう、祈ります。

よしもとばなな『デッドエンドの思い出』p.228-9

 

たぶん、初めて読んだころには、こんな痛み、理解できなかっただろうと思う。ちょっと切ないな、くらいで。

痛みを見てみないふりをすると余計に悪くなってしまったりして、どんどん癒えるのに時間がかかってしまう。本当は誰もが、ちゃんと自分の傷を自分で確認して、手当てを施す必要があるのだと思う。でも、自分がどんなにダメージを受けたのか直視するのはこわい。だから人は物語を求めるんじゃないだろうか。だれかに自分を重ねて、痛みに向き合って、少しずつ癒していくんじゃないだろうか。

年をとるのも悪くないな、いろんなことが見えるようになるし、お酒だってのめるし、と思った。いろんなことに対してざっくりバランスをとって生きていくのがいいんだな。またいつか読み返したとき、なつかしくほほえましく思えるようになっているのだろうか。