優しい文章を書きたい

あけすけすぎず、愚痴らず、でも素直な気持ちでいろいろ書きたいです。

繰り返し読むこと(1)自分の核、Bluについて

気に入った本を、何度も何度も繰り返し読むのが好きだ。

私にとって本を読むことは、自分の世界を広げたり、深めたりするのと同じくらい、むしろそれ以上に、精神安定剤のような役割を持っている。

展開を知っているから、どんな状態でも安心して読めるし、きれいな文章を読んでいるだけで心がふっとゆるむ。そして、前回と違うところが印象に残ったり、違う人物に共感したり、自分の価値観の変化を知ることも面白い。

大学の課題本や、論文用に読む本の間に、そんな慣れ親しんだ本を挟みこんでいる。

 

私にとってもう、どうしても好きで好きで、この先も間違いなく好きであろう作家さん三人が、モンゴメリ村上春樹吉本ばなな。(名前の表記を漢字に戻されたらしい)

私が物心ついて初めて「好きだ」と思った物語が『赤毛のアン』で、結果的に大学に戻ることになったのもこの作品のおかげだ。

初めて読んだ“大人の小説”が、叔父が祖父母の家に残した『キッチン』だったし、高校生のとき初めて書いた論文もどき(気合いを入れて書いた感想文)は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』についてだった。この論文もどきは、本当にただ自分の愛を詰め込んで書いただけだったけれど、文学研究をする楽しみを知ったきっかけだったかもしれない。当時の文章を読むと、自分の根本的な価値観というか、どういうものが好きなのかは変わっていないんだなぁと思わされる。

どれも、初めて手に取った瞬間から今に至るまで、「わたし」というものの中でかなり大きな割合を占めている。

 

そんなわけで、重いながらも新しい本と既読の本を持ち歩いていたりする。

 

最近読み返したのは、辻仁成の『冷静と情熱のあいだ』、よしもとばななの『デッドエンドの思い出』。

冷静と情熱のあいだ』は、江國香織のRossoが大好きで、何度も何度も繰り返し読んだ。(これも不思議なことに、数年前まで私は彼女の書く小説が全く受け付けなかったのだ。大人になると、こんなにも気だるくて、空しくて、まっすぐに明るくない恋愛しかできなくなるのだろうかと暗い気持ちになった。でもある時読み返してから、世界がまったく違って見えた)ことあるごとにページをめくって、お風呂で本を読むときにはアオイになった気分を味わってみたり。

一方で、Bluの方は通しで読んだのは一度しかない気がしたので、久々に手にとってみた。当時は芽実がかわいそうで、芽実にばっかり共感していたのだけど、今回は彼女をとても冷静に見ることができた。実際、私はあおいよりずっと、芽実に近いタイプであるのは間違いない。それでも今は、あおいの静かな情熱をとても魅力的だと感じる。自分の姿を客観的に見たような、気がした。Rossoにはない、最後に光のある終わり方もいい。

長くなったので分けます。

 

学会のこと、フィリパ・ゴードンについて

夏に、イギリスで開催される学会に行けることになった!

発表要旨を提出したものの、先生や研究員のお姉さまには年明けすぐに来ていた申し込みのお知らせが、いつまでたっても来なかったので、もう諦めて聴講のみの目的で行こうかと思っていたのだ。それが、昨日の夜、「遅くなって本当にごめんなさいね、でも反応は上々でしたよ、ぜひ夏にお会いしましょう」ってメールをくれた!

もうなくなったものだと信じていたところから、修論と同時進行で夏に向けてひとつ論文を完成させなくてはならない。しかも、苦手で仕方ない英語で。頑張らなくちゃ。

でも、本当に嬉しい。イギリスにどうしても、いつか、行ってみたかった。児童文学の聖地。しかも行くならぜひとも教授と研究室の人たちと行きたかったのだ。同じことで興奮して喜べて、勉強もできるだろう。嬉しい!どのくらい費用の補助はもらえるのかしら。なんにせよ嬉しい、プレッシャーの方が大きいのも本当だけど、でも素直に喜ぼう。

 

なんとなくUSBの中を見ていたら、1年くらい前に新潮文庫の「私の一行」に応募した文章がでてきたから、ちょっと直して貼ってみる。

『アンの愛情』のフィリパ・ゴードンについて書いたもの。

「あたしはみんなの顔を見てにっこり笑い、この世は美しいなと思ったの」

 

電車の中で、どこかにしまったはずの運賃を探してオロオロする。フィルと同じように、何かをなくして「ぞくっと寒気がした」経験は、わたし達にも一度や二度必ずあることと思います。

まさに先日、わたしも似たようなことがありました。お財布のなかに入れたはずのネイルのオフ無料券。電車の中で確認しても、どうしても見つかりません。これがなくては千円かかってしまう…たった千円、されど千円。たいしたことではないのに、無性に悲しくなりました。

そのときハッと、かばんの内ポケットに入れたことを思い出したのです。何事もなかったかのようにそのチケットをしっかりとお財布にしまいこんだあと、フィルのこの言葉が浮かびました。

一瞬の間に絶望と安堵を覚えることは、いつも周りを取り巻く世界がいかに優しく安心できるものであるかを思い出させてくれます。世界ににっこり笑いかけたくなる気持ち。そうして「この世は美しい」と思えるフィルのまっすぐで正しい明るさ。日常のちいさな悲しみも喜びも、世界の美しさのうちだと感じられる彼女のようでありたいと思いました。 

今読み返すと文章自体はまるごと書き直したいけど、言いたいことはわかるしやっぱりモンゴメリはいいなと思う。フィル、かわいい、大好きだ。

 人生のきらきらをそっと、静かに待ちたい。

読書会、ムーミンママの声、前髪について

粛々と(?)、こまごま忙しい日々を送っています。

この前、初めて読書会に参加してきた。普段自分じゃ選ばないような本を読みたいし、それについてのいろんな人の見解が聞いてみたいと思ったのだ。

作家読みタイプで店頭でジャケ買いをすることもないし、同じ本を何度もくりかえし読んでしまう。今回の課題本も初めてだったし、その作家さんの本読まなきゃ、とは思いつつもあんまり手が伸びなかった。

自分一人でただ読んでいるだけじゃなくて、人と話し合うのって面白いことだ。自分がまったく気にも留めなかったところがとても印象的だ、と言う人もいたし、わたしの幼稚な読みからわずかなヒントを得たらしき人もいた。こうやっていろんな人の考えに触れることは、視野を広げることにつながるかもしれない。本自体がそうなのだ、それを読むことで他人の思考を知ることができるのだ。

 

友達とムーミンの映画を観て、ムーミンカフェに行ってきた。はじめて。

映画は正直、すこし退屈だった。予想はしていたけど。でも、淡々と進んで行くストーリーの中に可笑しな場面がちょこちょこ潜んでいて、ひとりくすくす笑っていた。前から思っていたけど、ママの声が私のイメージとちがう。いかにもお母さんらしい、中年の女の人のイメージではなくて、私のなかではもっと若々しい溌剌としたイメージなのだ。生活の全てに楽しみを見出せるママは、永遠の少女らしさを持っていると思う。

ムーミンカフェでは、ムーミンをかたどったワッフルを食べた。本当はヤンソンさんの誘惑を食べてみたかったので、次回はそれにしよう。

 

前髪を切った。

思い立ったらすぐ切りたくなって、自分で切った。長いのに憧れていたけど、やっぱりこっちの方が落ち着くし、自分らしいような気がする。

「粛々と」と、友達のゆるい優しさについて

最近いいなと思った言葉。「粛々と」。

「ひっそりと静かに」「厳かに」という意味で、粛という字にはつつしむ、いましめるという意味もある。「粛々と物事を進める」などの使い方が一般的。雰囲気としては「淡々と」と似ているけど、もう少し重く、静かな印象。 

普段話し言葉として使う言葉じゃないかもしれないけど、何かを遂行するときに、粛々と自分の内に向かって積み上げていくイメージで、素敵だなと思った。しゅくしゅくと、という響きもかわいらしいのに芯がある感じ。

本も並行読みする悪癖があるし、なにかひとつのことをひたすらやっていくのは、少し苦手だと思っている。よそ見をしたり、周りを気にしたりしてしまう。うまくいかないかも、別のことを探したほうがいいかも、なんて考えてしまうんだけど、まずは粛々と自分のすべきことを突き詰めていきたいと思うのだ。

もちろん、並行読みも悪いことばかりではないのだけど。そして、その割にはテレビを見ながら読書をしたり、日本語の歌詞がついている音楽を流しながら文章を書くという意味で、同時に二つのことをこなすのは苦手なのはどういうことなんだ。

 

 嬉しかったこと。

週末、幼馴染の友達が6人で旅行に行っていた。私も一緒に行きたかったのだけど、家族旅行と日程が完全にだだかぶり、参加できなかった。そのこと自体はとても残念だったのだけど、写真を送ってくれたり、メッセージを伝えてくれたり、訪れたお店にあるノートに私の名前も入れてくれたりした。

たぶん友達のしてくれたことは、さみしがってるだろう、優しくしてやろう、という気負いのあるものじゃなかったと思う。とてもゆるくて、適当で、だからこそその押し付けがましくない優しさが嬉しかった。いいこと、うれしいこと、大切にすべきこと。

「ときめき」、学ぶこと、ちいさなおみやげについて

チャットモンチーの新曲があと少しで発売される。 

まだショートバージョンを聴いただけだけれど、とても好きな感じ。「ときめき」という曲。可愛らしい中に、甘い棘がある感じが好きだ。早く聴きたい。

 

家族で旅行、二日目。いつもと違う机で、いつもと違うキーボードに向かっている。

私だけ絶対参加の修論発表会があって、朝一で大学に戻った。来年は私も発表だ。博士課程のひとも今日は一緒で、この先のことをまた少し考えた。今年卒業の先輩もやっぱり進学するらしく、その話を聞かせてもらった。

ついこの間、教授の講義が外部であったので、聞きに行った。わかりやすく大衆向けの内容だったから、いつにも増して本当に楽しかった。改めて、私はなんて恵まれた立場にいるんだろう、と思う。こんな先生がそばにいて、いつでもなんでも教えてくださるんだから。くだらないことかもしれないけど、もっと本を速く読めるようになりたい。もっと知識を身につけたい。本屋って大好きだけど、たまに世の中にある書物の量に愕然としたりもする。悪魔と契約したファウストの気持ちがほんの少し、わかる。

 

自分のための、これから来る時間のための、ちいさなおみやげが好きだ。

たとえば、アルバイトに向かうとき。この前は、気に入っているメーカーのノートを新調して、付箋を買って、おやつにパン屋さんでパンを買ってから向かった。手が空いた時にあれを書こう。休憩でこのパンを食べよう。自販機でスープを買って、という、本当にささやかな楽しみ。趣味の本を図書館で借りてきて、それを開く楽しみを抱えているときも思う。こういうささやかな自分へのおみやげを携えて、すこしでもうきうきした気持ちでいられるようにすることが、毎日の中でいかに大切なのかを。

 

那須塩原の露天より

iPhoneより。
祖父の米寿のお祝いで、三世代で那須塩原の温泉に来ています。お部屋についている露天風呂で、手を少し遠くに伸ばしつつ、打っています。
ご飯も美味しくて、細かい雪が降っていて、お部屋に戻ればぱりぱりのシーツが張ったベッドが待っている。幸せ!
明日は早起きして大学に行かなきゃいけないけど…頑張ります。

「牡蠣フライの話」について

またこうやって、ちゃんと人に読まれる(かもしれない)ところで何かを書きたい、と思ったのは、村上春樹の『雑文集』の中の「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」という文章を読んだことがきっかけです。

読者からの「就活で、原稿用紙4枚以内で自分について書け、と言われた。僕にはできなかった、プロの作家ならできるのでしょうか?」という質問に対して、村上さんは

原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のように僕には思えます。

ただ、自分自身について書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。

あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。それが僕のいわゆる「牡蠣フライ理論」です。

(『雑文集』村上春樹 p.22)

 と答えていた。

3回くらい読んで、とても納得した。そして、「よし、何か書こう」と思った。

 そして村上さんが実際に牡蠣フライについて書いた文章も、とても素敵だった。揚げたての油がしゅうしゅうという音が聞こえてくるようで、それを今まさに口に運ぼうとする人間の幸福が自分のものであるかのように感じられて。

何かについて書こうと思って、日常をよく見ること、表現を探すこと、それらがうまくいけば自分について表すものの一部になってくれればいいと思う。そしてそれらができるだけ、やさしい色を帯びるように。

 

余談だけどこの『雑文集』、買ったのは実に3年近く前でした。京都に行った時に、夜に本屋さんを覗いて買ったんだった。どうして旅先でかさばる重い本を買おうと思ったのかはわからないけど、いいタイミングで読めたのかもしれないな。